Yellow Magic Orchestra and more...

第6回 細野晴臣インタビュー 〜読売新聞2004年10月2日「こころの四季」より〜

今回は,最近の細野氏のインタビュー記事を(ほぼそのまんま)紹介します。


いい音を響かせたい〜細野 晴臣さん

ほその はるおみ 音楽家。ロックバンド「はっぴいえんど」で日本語によるロックを開拓し,「YMO」で世界進出。
松田聖子らにも楽曲を提供し,ヒット曲多数。57歳             


「紀伊山地の霊場と参詣道」の世界遺産登録を記念するイベントで,締めくくりのステージをプロデュースした。
かつて電子音楽で一世を風靡した鬼才は,何を伝えようとしたのか。


紀伊の自然は,人の存在を圧倒するような力があり,謙虚な気持ちにさせられる。
そうした環境に向けて即興的に音を響かせることを心がけました。
笛,和太鼓,アイヌのトンコリ,インドネシアのガムラン,ラテン系のパーカッション,ギター,ベース,
オルガンといった構成で,リラックスして音を響かせていかにお互いが楽しむか。
そうすれば見ている人も精霊も喜ぶだろうと思いました。

僕は「響き」が音楽で一番肝心だと思っています。
響きとは空気を伝わり,振動していく音響のこと。
楽器が持ついい音,人が聴いて感じる音――その場でいい音を響かせたい。
どんないい曲でも響きが忘れられるとダメです。

もっとも,昔と今では考えが変わって,以前はノイズが入っちゃいけないという先入観がありましたが,
今はノイズがあることがむしろ自然だと思うようになりました。

音楽は中学二年の頃,同級生を集めてギターを弾いたり,
ブリキ缶でドラムをやったのが最初です。高校では音楽部でした。
ハワイアンが主流でしたが,僕はボブ・デュランなどのフォークが好きで,
文化祭で有志とやって表彰されました。
勉強なんかせず音楽漬けの毎日でした。

ベースは大学に入ってから。
親からも就職するように言われていたし,就職は頭にありましたが,
ボーッとしていたら,就職シーズンが終わってしまい留年。
留年中に誘われてプロになり,給料をもらい生活ができるようになったので,
これが自分の就職かなという気持ちでした。

「はっぴいえんど」というバンドは翌1970年,松本隆,大滝詠一,鈴木茂と結成しました。
当時は,外国のコピーバンドが全盛でしたが,
「コピーでなく,自分たちで作ろう」と言っていました。
日本語でないと,やっている感じがしないと。慣れるまでやりにくかったですけどね。
当時の松本は文庫で詩を読む文学青年で,彼の文学的な資質が幸いしました。

「キャラメル・ママ」(後のティン・パン・アレー)では,荒井由美,矢野顕子らの作品に
スタジオミュージシャンとして参加しました。
そして,こういう音楽が売れればいいのにと話していた荒井由美が突然売れ出し,
大きく流れが変わったような気がします。

「YMO」を始めたころも売れるとは思っていませんでした。
ああいう遊びの音楽を好きな人は少数派です。
そこで,世界中の少数派を集めれば,なんとか活動を続けていくことができるだろうと考えました。

僕は江戸前なのでしょうか。とにかく飽きっぽい。
30年以上もやってこれたのは,いい音楽との出合いがあったから。
いい音楽を聴くと,やる気が出るというか,創作意欲がわいてきます。
最近は20代,30代の名もない人がやっている音楽に刺激を受けています。

(すいませんあんまり気に入ったので全文載せてしまいました)


<管理人から〜恥ずかしながら音楽王への賛辞〜>

   細野氏の30年以上にもわたる音楽活動が凝縮されたインタビューだと思いました。むろんこれがすべてでなく,
  実際にはもっと紆余曲折があったり,言いしれぬ葛藤があったことはいうまでもないのですが。
  
  「YMOのお三方で誰が一番好きなの?」とよく聞かれることがあります。以前は教授と答えていましたが,ここ数年は
  細野氏と答えるようにしています。遊びで音楽を楽しむところとか,飽きっぽいところとかが何となく自分と似ていて,
  共感できるところがあると勝手に感じているのです。
  
  今聴いても楽曲の一つひとつがどれも新鮮で,聴くたびに新しい発見を教えてくれる。
  そんな不思議な音楽家は,日本に,いや世界にもそう多くはいないと思います。
  
  ぼくにはそれを生かした音楽は到底できそうもないのですが。

  今後も,細野氏から目が離せません。いやもうほんと,大変なんすから。


(2004.10.7)

(第7回に続く) 

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